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松浜軒うんちく

概 要

 八代城の北西に位置する松浜軒は、元禄元年(1688)、八代城主松井直之が、母崇芳院尼(すうほういんに)のために建立した茶庭です。当時は、庭の北西側に松が植えられ、松波越しに八代海や宇土半島、さらには遥か雲仙まで望める雄大な眺望を持った庭園でした。
 当時は海浜も近く、「松浜軒」の名はこれに由来しています。庭内にある池は、もともとこの地にあった赤女(あかじょ)が池を取り込んだもので、池の中央には玉石を置いて海浜を表した中島や、深い山奥の趣を見せる築山などがあり、二階建の主屋にある書院「白菊の間」からの眺めに考慮した配置となっています。
 江戸時代には、藩主来訪時の接待や松井家遊興の場として用いられ、希望すれば上級武士は庭園の見学ができたそうです。主屋内にある茶室のほか、庭内にも「林鹿庵(りんろくあん)」「綴玉軒(ていぎょくけん)」などの茶室が設けられ、茶道を愛好した松井家らしい風情ある庭となっています。
 5月下旬には、熊本藩士の精神修養のため奨励された園芸ブームによって生まれた「肥後六花」の一つである「肥後花菖蒲」が咲き誇り、これにあわせて行われる「肥後古流」(千利休の古式を伝える茶道)の茶会が、この季節の風物詩となっています。
 昭和24年・昭和35年には、来熊された昭和天皇の宿泊・休憩場所ともなっています。随筆家内田百閒が、松浜軒を気に入って何度も宿泊し、その作品『阿房列車』に取り上げていることでも知られています。

松井家と
松井文庫について

 松浜軒を作った松井家は、もともと室町幕府の将軍足利家に仕えていた家で、山城国(現在の京都府)の出身です。戦国時代、同じく足利家に仕えた細川家と行動をともにし、松井康之が、細川藤孝(幽斎)の養女を妻として以来、細川家第一の重臣として活躍し、細川家が丹後国12万石、豊前小倉藩39万9千石、肥後熊本藩54万石の大大名へ成長するのに、大きな役割を果たしました。松井家には、戦国時代から江戸時代にかけての膨大な古文書や美術工芸品が伝えられており、これらは、昭和59年に設立された「財団法人松井文庫」によって保存公開されています。
 松井文庫の名品としてよく知られているのは、豊臣秀吉が石見半国を与え、直属の家臣となるよう勧めたのを断って、代わりに賜った唐物茶壺(銘「深山」)やその話に感銘を受けた徳川家康から賜った水指(銘「縄簾」)、千利休が切腹する2週間前に康之宛に書いた手紙(利休絶筆)、晩年を熊本で過ごした宮本武蔵の書画や木刀などで、そのほか、茶道具や能面・能装束など、貴重な文化財が数多く所蔵されています。

肥後花菖蒲について

 毎年6月上旬、見頃を迎える肥後花菖蒲は、肥後六花のひとつで、天保4年(1833)、熊本藩士吉田可智が江戸の旗本松平定朝から、花菖蒲培養の秘訣を受け、苗を貰い熊本で鉢植えとして培養したのが始まりとされています。
 その伝統は、肥後花菖蒲満月会が受け継ぎ、種苗は必ず鉢に植え、苗や種子は門外不出という会則が守られています。松浜軒内の案内板にも「満月会より唯一地植を許されたもの」と説明されています。
 さて、花菖蒲が入る以前の松浜軒の景観はどのようなものだったのでしょうか。明和元年(1764)、熊本藩士小笠原長意が八代を訪れた際の見聞録「八代紀行」に次のように記され、庭の主役は今とは違っていたようです。

庭の景色又いわん事もわすれ下り立てみけるに池ひろくほりて燕子花(かきつばた)沢山に植えおかれ河骨(こうほね)、沢桔梗、川竹、蓮 所々に見へ 三筋の藤棚他の上に十間程につくりわたしたるありさま・・・、かかる所は世の中にあるへくもなしとなんみへける。


今でも、松浜軒南西側の池には、燕子花が植えられ、花菖蒲より半月ほど早く見頃を迎えます。
 参考:「八代紀行」 小笠原長意著(「雑花錦語集 巻119」所収 熊本県立図書館所蔵)

松浜軒で花火

 「宝永六年七月廿三日の晩六ツより浜御茶屋にて花火有之、二十色」という記録があります。1709年7月23日の夜7時頃、松浜軒で20色の花火をした、という意味です。これがどのような花火だったのかはわかりませんが、松浜軒内には、かつて花火を作っていたという建物が「綴玉軒(ていぎょくけん)」と名づけられ、茶室として今も使われています。
 今から約300年前にすでに花火が行われていた八代で、全国花火師競技大会が今や恒例行事となったのは、不思議な縁を感じます。
 出典:「肥後八代類例集―宝暦~文化年間の記録―」(八代古文書の会叢書第7巻)

崇芳院尼について

 松浜軒は、八代城主松井直之が母崇芳院(すうほういん)のために建てた御茶屋です。元禄2年(1689)2月1日、前年から取りかかった松浜軒の御茶屋が完成し、お祝いが行われています。崇芳院は、43歳のとき、夫(寄之)に先立たれ、66歳のとき御茶屋が完成。88歳まで長生きしました。松浜軒は、親思いの息子によって母親が晩年を心豊かに長生きできた親孝行なお庭といえます。

児宮

 毎年1月10日は、松浜軒内にある児宮(ちごのみや)の祭礼日です。児宮はその名の通り子供を守ってくれる神様で、松井家7代目営之(ためゆき)公が、天明元年(1781)に勧請しました。というのも、営之には7歳を待たずに亡くなった弟妹が11人もいて、営之自身、最初の妻をお産で亡くしています。子供が無事に育つように、女性がお産で命を落とさないように、という切実な願いは誰よりも強かったのでしょう。児宮をまつってから、松井家では早く亡くなる子供は少なくなりました。毎年2月3月、松浜軒では雛人形が飾られます。子供たちの健やかな成長を願う雛祭りを見て、児宮にお参りすると、とてもご利益があるでしょう。

内田百閒と松浜軒

 昭和26年(1951)7月6日、内田百閒(ひゃっけん、随筆家・小説家)が初めて松浜軒に滞在しました。そのときの旅行記は「鹿児島阿房列車」(第一阿房列車)に書かれています。
 百閒は、松浜軒で知り覚えた食用蛙について、次のように記しています。「今にお池の食用蛙が鳴きますよと云う。まだ鳴きませんかと聞くので、知らないけれど、どんな声をするのか聞いたことがないから、鳴いたのかどうだか解らない。」「全く変な、馬鹿な声がしたと思ったら食用蛙である。よくもあんな下らない声が出せるものだと思う。」「段段と食用蛙の声がうるさくなってきた。石油の空缶をどた靴で踏む音に似ている。凡そこの位無意味は鳴き声はない。馬鹿馬鹿しくて少し腹が立って来る。」「池の食用蛙に魘されながら寝た。」など。
 蛙にさえ、毒舌をはきつつ、百閒は松浜軒が気に入り、その後たびたび訪れた。8回目となる昭和32年の滞在時には、失踪した愛猫ノラのことが気がかりで「お池の食用蛙の馬鹿馬鹿しい鳴き声が、今度はなんとなく悲しい。」とまで書いています。百閒に「愛」された松浜軒の食用蛙ですが、いつのころからか一匹もいなくなってしまいました。

白島産の手水鉢

 一見、コンクリート製の土管のような手水鉢。じつは八代城の石垣と同じく、白島(しろしま)で採れる石灰岩(大理石)で作った手水鉢です。江戸時代、「白島石細工」は八代の特産品で、小さい文鎮や花瓶、手水鉢などが生産されていました。天保10年(1839)頃には、手水鉢が江戸城の将軍様や尾張徳川家などに献上された記録があります。当時としては、超斬新なデザインだったのでしょう。庭内に2基残っています。